娘に語るお父さんの歴史

この1週間、ひどい風邪を引いたため、本もあまり読めなかったが、

『娘に語るお父さんの歴史』

(重松清)

を一気にこの数日の通勤時間で読んでしまった。

 

3人目の『賢(Ken)』が産まれたばかりの今の自分にはとてもしっくりくる内容で、

先日の『ぼくはこう生きている 君はどうか』

からの流れを汲んだ選択だった。

 

30代前半に『きよしこ』を購入したが、

結局のところ一昨年まで全く手が本棚に伸びず、

いつ読む機会になるのかと心配だった。

ところが、2015年の『きよしこ』を皮切りに

『ビタミンF』『とんび』『その日の前に』『ゼツメツ少年』

と日本に一時帰国するときには必ず1冊何か購入することにしている。

『きよしこ』を読むきっかけがどうだったかは思い出せない。

本棚を整理していてみつけたので、

「せっかくだから」くらいだったのかもしれないし、

2015年ドラマの『流星ワゴン』忠さんのおかげなのかもしれない。

 

重松清という作家がいる時代にいてとても運が良かったと思っている。

小説を読むと「豊か」になれる。

 

小説のなかの色々な人たちを垣間見て、

自分はどうかどうだったかどうなるのか比べそして考える。

 

答えがどこかにわかりやすく有るわけではなく、

人生がただ幸せや悲しみだけに分けられるのでもなく、

何か靴の中にちっちゃい石が入っていて

それがとても気になるときもあるけど

結局、取り除けないまま、そして歩いている。

 

『娘に語るお父さんの歴史』

 

核家族

p.66

「なるほど、核家族とは、やはり絶妙なネーミングだ。細胞の『核』はどんどん大きく育つわけではなく、しかるべきタイミングで分裂するのだから」

 

保育園と幼稚園

p.87

「保育園は厚生労働省。要するに社会福祉なんだ。幼稚園は教育機関で、だから保育園の先生は保育士さんだけど、幼稚園の先生は、学校の先生と同じなんだ」

 

p.145

東京芝浦電気(現 東芝)

 

p.177

「子どもは未来なんだ。未来を生きるのが子どもの役目だ。未来が幸せだと信じることは、子どもが幸せになると信じることでもあるんだよ」

 

p.186

「カズアキには、お父さんやお母さんのような苦労はさせたくないんだ」

 

p.192

「急がなくてもいいから、いつか、おとなになれ。

おとなになったら、幸せが増える。

幸せに勝ち負けを求めなくなり、幸せの数を増やすことができるのが、おとなだ。

どうだ、おとなってけっこういいだろう...と、おとなになったからわかるのだ。」

「共同体」「教え、教えられ」「村八分」

「共同体」

著者たちの議論では現代失われつつあるものと取り扱われている。

ただし、自分のことを振り返ってみると、

自分には様々な「共同体」がこれまであって、

これからも大事な存在になっていくものだと感じる。

 

小4から自宅浪人まで過ごした、中野区白鷺

 小中:野球

 高校:バスケ部、生物クラス

大学/大学院で過ごした、京都と仙台

 サイクリング部、自転車競技部、歓山荘、家庭教師、塾講師

ポスドクの5年間を過ごした、スタンフォード

 

今は、ニューヨーク

 アパート、研究仲間

 

著者たちが述べる、

「西郷隆盛と大久保利通」を輩出した「下加治屋町」とは、

友情だけでなくて、

何か特殊な共同体ができるということではなくて、

自分のいる共同体内の「見える」「想像できる」人たちとの

『切磋琢磨』が大事なのではないかと思う。

 

自分にとっての最初のそういった経験は、

地元公立小学校が一緒で知っていた(1つか2つ上の)先輩が

高校受験を経て、

その後「大学への数学」で扱われていているのを知って、

こんなわけのわからん数学がどうして解けるのか?

なんでそんな難関校に入れるのか?と

急に勉強への意識が変わった経験がある。

バスケや自転車、研究でも同じ経験があった気がする。

彼らができるなら、自分もできるのではないか?

それは、

ライバルという表現よりも、

切磋琢磨するという表現がしっくりくる

 

「教え、教えられ」

ラボのメンバーに教え、教えられ、

子供を育て、子供に育てられ

 

今、自分は誰かと切磋琢磨しているのか?

自分だけではなく、周りも引き上げる存在にならなくては

 

「村八分」

語源を全く知らなかった。恥ずかしい。

 

「ルール」

15分は難しく、20分かかった。。。

 

 

 

 

ルールとモチベーション

ルール:

1日15分以上使って書き込まない

 

モチベーション:

何故2回以上読んでも新鮮に感じるのか、、

        つまりは、頭に入っていないということだと思う

公に書いていることを念頭に、

            今後のメモとして残したい。

 

今、読んでいるもの

『ぼくはこう生きている 君はどうか』

(鶴見俊輔 重松清)

 

P20

「同じ町内なんですね」

「そこにあるのは『ゲマインシャフト』、情緒の通う『共同体』なんですよ」

 

P31

「『教え、教わる』というのは相関的なものですよ」

 

P95

『『村八分』というのは、『八分』は排斥するけども、『二分』は残すわけです。二分は田んぼの水利から外さないこと、それと葬式のときは手伝うこと。だから西洋の魔女の扱いとはずいぶん違うんです」