「共同体」「教え、教えられ」「村八分」

「共同体」

著者たちの議論では現代失われつつあるものと取り扱われている。

ただし、自分のことを振り返ってみると、

自分には様々な「共同体」がこれまであって、

これからも大事な存在になっていくものだと感じる。

 

小4から自宅浪人まで過ごした、中野区白鷺

 小中:野球

 高校:バスケ部、生物クラス

大学/大学院で過ごした、京都と仙台

 サイクリング部、自転車競技部、歓山荘、家庭教師、塾講師

ポスドクの5年間を過ごした、スタンフォード

 

今は、ニューヨーク

 アパート、研究仲間

 

著者たちが述べる、

「西郷隆盛と大久保利通」を輩出した「下加治屋町」とは、

友情だけでなくて、

何か特殊な共同体ができるということではなくて、

自分のいる共同体内の「見える」「想像できる」人たちとの

『切磋琢磨』が大事なのではないかと思う。

 

自分にとっての最初のそういった経験は、

地元公立小学校が一緒で知っていた(1つか2つ上の)先輩が

高校受験を経て、

その後「大学への数学」で扱われていているのを知って、

こんなわけのわからん数学がどうして解けるのか?

なんでそんな難関校に入れるのか?と

急に勉強への意識が変わった経験がある。

バスケや自転車、研究でも同じ経験があった気がする。

彼らができるなら、自分もできるのではないか?

それは、

ライバルという表現よりも、

切磋琢磨するという表現がしっくりくる

 

「教え、教えられ」

ラボのメンバーに教え、教えられ、

子供を育て、子供に育てられ

 

今、自分は誰かと切磋琢磨しているのか?

自分だけではなく、周りも引き上げる存在にならなくては

 

「村八分」

語源を全く知らなかった。恥ずかしい。

 

「ルール」

15分は難しく、20分かかった。。。