火花の景色

『火花』を読み終え、

今は

『ことり』(小川洋子)

 『皇室の祭祀と生きて』内掌典57年の日々(高谷朝子)

 

『火花』の舞台としてよく出てくる

井の頭線、井の頭公園、吉祥寺は

高校が近く、小説のなかの景色が目に浮かぶ。

高3の夏には友達と井の頭公園の池に入って泳いで遊んだこともあった。

小中のころ、

『ナウシカ』の連載が読みたくて

アニメージュを買いに吉祥寺のアニメイトに自転車で通ったのが懐かしい。

当時は、ドラえもんのスネ夫が実在した場合、

本当はどんな髪型なのかよく議論されていた。

釣り具屋さんのバス用ルアーを求めてアニメイトの後に寄ったりもしていた。

今ではたいした距離ではないのだろうが、

子どものときには、白鷺から吉祥寺の自転車で往復となると一大イベントだった。

 

『火花』

p.40-41

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行だと断定したがる奴も出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。(途中、略) だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる。」

 

この神谷の発言は、

研究者にも正に当てはまるので、読んでドキッとした。

reviewを書いたり

学会やミーティング、グラントなどの審査会を切り盛りしていくのは、

実際に手を動かし試行錯誤する実験生活に比べて、格段と楽である。

それまでの経験を生かして

言葉を巧みに使い、その場その場で対応すれば良いだけだから。

自分も一時期このやり方が楽なのを覚えてしまって

「このままでは駄目だ」と我に返った。

手を動かし続けて、

一つ一つの実験結果をまとめることが

如何に手間ひまかかるかを実感しつづけ、

かつ、想定外の結果がでてもすぐさま反応できるような

現役プレーヤーでいたいと再認識した。

 

ここでの神谷の考え方に同意する。

 

95%のマジョリティーの研究者になるつもりは到底ない。

彼らに周回遅れのような圧倒的な差をつけるには、

日々自分の腕と感を磨き、メンバーを励まし、一緒に切磋琢磨して

常に成長しつづけなくてはならない。

 

<運動>

ラン(from lab to home、追い風で身体が軽くて5分速く、トータル30分)

成とアメフットボールのキャッチーボール(30−40分)

 

当初のルールは守れず、30−40分はこのブログに費やしている。。。