クレジットカード社会

1週間ほど前にクレジットカードが

何者かにどこかで(主にテキサスらしい)

利用されようとしてブロックがかかった。

 

ということで現金ライフを、といったところで

いきなり、今日はNewarkの空港内で

簡単にものが買えないではないか。。。

現金で支払えるところが少なすぎて混んでいる。

 

Oregon Portlandについたら、

今度はホテルでカード決済の請求。。。

いや、現金でお願いっ!ていうと、

かなり怪訝な顔をされ時間がかかり、

隣の机の引き出しからから

滅多に使わないようなジップロックの現金用袋から

お釣りをやっとのこともらう。。。

 

カードを持たずに学会に出発して初日から

この米国は、つくづくクレジットカードライフなのだと痛感する。

先週の英国では全然大丈夫だったのに。

 

以前、ニューヨークのユダヤ系商人の本で

クレジットカードを使うな、現金ですべて決済しろ

という教えがあるとあったけど、

実際に現金のみで支払いすると

どのくらい自分がお金を使っているかより痛感することからも

少しは財布の紐が緩みにくくなる気がする。

 

飛行機のなかで『毒笑小説』(東野圭吾)を終え、

今は、

『読書脳』(立花隆)

 

おかげで、面白そうな本がたくさん紹介してもらえるため、

英語での原書を読んだりできそうだし、メモが増える。

アレもコレも読んで勉強になりそうだ。

 

機内では論文の雛形もできてきて

今後必要となる追加実験も整理できた。

6時間のフライトの間、

ずっとフルパワーで読書と書物ができて非常に充実していた。

 

<運動>

なし

 

火災警報

ロンドン空港の自分のいるターミナルで火災警報があり避難。。。

 

July 4thでかつ米国行の飛行機が多いターミナルだったので

本当に火事なのかそれとも何か事件なのかわからず

かなりの緊張感があった。

 

その後、特に何事もなく解除され、

急いでboardingのため遠くのゲートまで早歩き。

出発は遅れたものの、

到着は定刻より少し遅れるだけで済んだので

よかったよかった。

 

<運動>

Oxfordの中心への往復でラン60分

Oxford

Matthewにセミナートークに招待してもらい

4日間Oxford滞在。

思っていた以上にとても素敵なところで

米国にはない街並みやcountrysideを案内してもらい、

様々な偉人たちの歴史も学ぶ。

こういった環境で生活・研究できれば、

さらに高みを目指せるような気がした。

 

さて、このブログで

読んで気に入って記憶にとどめたい箇所を

自分で確認しながらタイプしていくと

しっかり頭に残り記憶に留められることを改めて痛感する。

コピペをしたら、こうはならないだろう。

『やわらかな心をもつ』は、

まだまだ書残しておきたいことろが多い。

 

行きの機内と

ロンドン空港内での入国・passport check(1時間半以上並んだ。。。)の間に

『怪笑小説』(東野圭吾)

を読んでいたのだが、

面白いところで笑いがこらえきれず

特にpassport checkの手前ではえらい参った。

 

「鬱積電車」

日本に帰った際に、混んでいる西武線で実家に向かうときに

「鬱積電車」と同じような感じで、

車内の人たちが何を考えてこの電車に乗っているのか想像したこともあったので

親近感のある内容で楽しめた。

NY市内の地下鉄でも車内の人たちのこともこれまで以上に考えてみようと思う。

 

<運動>

朝に滞在場所からOxfordの中心街の往復でラン50分

学校で学んだこと、覚えていること

p.151 「学校で学べること」

萩元 それでねきのうも少し話が出ましたけれどね、今の子供たちは、幼稚園とかその塾のころからね、自分といっしょに勉強しているのはね、競争相手だとか敵だとか思うような、そういう意識が潜在的にあるらしい。

広中 はあ。

萩元 こりゃたいへんなことじゃないかという気がするんだ。ぼくは、子どもがいないからあんまりわかんないんだけどね。そういう話を聞くとね、ちょっと恐れ入る。昔は、同級生なんかは、友達なんだ。友達とは仲良くしましょう。

小澤 そうそう、そうそう。

萩元 それがあったけど、最近はいっしょに勉強している奴が、一人体が悪くなって休んだりすると、それは得なんだという、極端に言えばそういう考え方が出てきているみたい。

広中 たとえば、相手の気持ちを察する能力というのも、生きてゆく上で非常に大切だと思うんだ。相手が口に出さなくても、相手の立場に立って、ひょっとしたらこう考えているかも知れないっていうようなね。そういう感受性の力、デリカシーみたいなもの、そういうことっていうのは、僕はものすごく大切だと思うんだ。そういうことを、いつ学んだかというと、ぼくはやっぱりほかの子供たちと遊んでいる時だったと思うんだ。親兄弟からも学んでいるわけだけど。

 

自分が小学校高学年(5ー6年)の時は、

いかに鬼ごっこで逃げきるかと(罰ゲームが恐ろしかった)

野球(巨人戦のすべてをテレビ、ラジオ、新聞でカバー)がもっぱらの関心事で

何か友達付き合いも野球も難しいなぁと思って

やりづらくなったころに

中学に上がるタイミングになり、

一部(1割くらい)は別の中学へ、

そして、他の2校とうちの小学校で融合した中学になり

まったく異なる刺激の数々と混沌に揉まれることになる。

(学ランも部活も周りの恋愛模様も)

小4まで一番だった身長も止まり始める。。。

目も悪くなり、野球が苦しくなる。。。

中間とか期末とか宿題もいろいろ。。。

 

そこで学んだことは、

友達関係とか友情はもろいこともあるし

中心のリーダー格が逆に干さることもあったり

何か付き合いづらくなったり、

急に仲良くなったりと

世の中難しいわからないことだらけだということ。

中学くらいって「自分の暗黒時代」というけど、

みんな多かれ少なかれこのことに同意すると思う。

 

いろいろそんな3年間であるけれど、

(ほとんど高校でバラバラになり、確か7、8人だけが同じ高校へ)

なんだかんだ言って、

同じ共同体(小中)を過ごしたというのは、

今となってみれば、

かけがえのない支えであり、

成人式や地元などでばったり会えば、

お互い嬉しい顔になる。

 

思い返してみると

しょうもないバカなことや恥ずかしい失敗の数々を

みんなが結局共有しているからこそ

逆に安心できる存在なのかもしれない。

 

 

p.226 「親と子の愛情」

広中 子どもは生まれた時から自己成長の機能を備えていて、本能的にあるものを取り入れて成長して、自然に独立しちゃうわけよ。小さい時には手がかかるというけど、実は、手をかけるという喜びとか、勝手に親が考え出した義務感を満たすためにとか、そのために子どもを利用しているわけさ。たとえば、子供に愛情を与えるというけど、子どもは、愛情なしでも生物としては成長できるわけだ。実は、親が愛情を与える喜びを受け取っているわけだ。愛情を与えて、子どもがいい子に育って行くのを喜んでいるのは親だからね。

小澤 そうそう

広中 向こうはさ、ベイビーだからさ、愛情を与えてもらってるのかどうか、知ったことじゃない。。。。(笑)してくれと、言ってるわけじゃない。愛情なら、愛情がそこにあるから、勝手に取って自然の成り行きで勝手に成長しているわけだ。植物が成長するようなもので、親は水をかけたり、肥やしをやってりして、ああ良い形に成長した、花も咲いた、と眺めて喜んでいるわけだ。

小澤 うん、そうだ。

広中 で、親なんか、いてもいなくてもいってような。。。 子どもは自然の生命力で、自分では無意識のうちに育っているかわだから、親があんなにまでしてやったと思うほど、親を評価しないわけだ。子供の時にはね。子供がおとなになって、ついでに親になった時に、初めて評価する。

小澤 そりゃそうだ。

 

小澤征爾さんといえば、

日本を代表する指揮者で

想像するだけで、笑顔のまぶしい方である。

その小澤さんのこの相槌の入れ方が非常に軽快で

本からでも、彼の笑顔、同感しながら話を聴いている表情が目に浮かんでくる。

 

広中平祐先生(先生とつい呼んでしまう)は、

高校時代に自分のことを何度も救ってくれた数学の野口先生から

いかに広中先生が尊敬するに値する方がずっと聞いていたので

その名前を聞くだけで、

ははっーとひれ伏してしまう。

(パブロフの犬みたいに、刷り込まれている)

 

この会話の収録は1976年。

自分が生まれる前のもので、

著者の方たちは自分の親かそれ以上の世代である。

にもかかわらす、この本を読むと

今の時代にもピタッと来るものばかりで、

何かを達成、達観した人たちには

時代に関わらず、共通する経験や考え方があるわけで、

「孫子の兵法」など昔からの書籍は、

今でも学ぶことがたくさんあるのだと思う。

 

 

p.59「ぼくは鈍感だから」

広中 ああ、ある程度なんていうか、素質もあるんじゃないかな、生まれついた性格とかね。ぼくなんかどちらかというと、生まれつき鈍感だからさ、それほど他人のことはあまり知らないわけだ。知らなくてもあまり気にならないから、のんびりできるっていう、そういう性格があるわけよね。だけど、ある人たちは、生まれつきかどうかわかんないけどさ、とにかくまあ見てると非常に神経過敏だよね、他人の成功に対してね。だからまあどこそこで、なにがあったっていったら、もうすぐワァワァ言うしさ。どこそこの国で、なんとかいう新しい理論ができてというと、それをもう知らないでいると不安でしょうがない。またある人はこの鈍感なぼくが見ても感心するくらい鈍感でさ、なにかしらんけど、自分一人で一生懸命こつこつとやっている。同じ問題をほかの人がやっているかどうかも知らない。だからほかの人にだしぬかれることも少なくない。だけどそういう人のつくる良い仕事は本当に良いね。流行に乗ってかっこう良くやっている人の仕事にない、独特のよさがあるね。

小澤 鈍才肌なんだ。

 

p.150「子どもへ伝えるもの」

広中 学校の先生からも相当影響される。だいたい学校の授業で習ったようなことはほとんど忘れちゃったけどさ、先生の性格とか、態度とか、出来事に対する反応の仕方とかね。

やわらかな心をもつ

『やわらかな心をもつ ぼくたちふたりの運根』

(小澤征爾 広中平祐)

は、間違いなく名著である。

多くの人に読んでもらいたい。

 

この本は大切な友人が引っ越すときに、

良い本だと残してくれたもの。 

友人というか、ポスドクとしての先輩であり

うちら夫婦にとってお兄さんような存在の方で

とても優しくしてもらった。

 

さて、この本の最後を見ると、

初版は

昭和59年10月25日

17刷の平成15年のものを頂いたようである。

 

5回は読んでいるが、毎回面白く学ぶことがでてきて

今の研究生活にもまたモチーベーションを上げられる。

 

メモしているところが多すぎで、どうアップすればよいものか。。。

 

 p.40 「集中力」

小澤 集中力ってのはやっぱり努力だと思うんだよ。

広中 あ、そう。それはちょっと面白いね。

...(途中、面白いが略)

小澤 男一匹、これで食わなきゃいけないなんて悲愴感があったわけよ。その悲愴感と、ラグビーのときの気持とが、こういっしょになって、集中しなきゃだめだとか、これやんなきゃだめだっていう、せっぱつまったものはあったと思う。

広中 うん。そういう環境というか経験によるなにかはあるね。僕も家庭教師やっててね、大学へ行ってたころ。ぜんぜん仕送りなかったからね。で、家庭教師やっておそく帰る時にね、もう、暗くなって、こん畜生!いま勉強してやらなきゃ、と思ってね。これだけ時間ロスしたからさ。

小澤 おお、たとえばぼくもね、あなたに似ているんだけど、家にピアノがないわけよ。そうすると、ピアノ弾かなきゃ音楽の勉強できないから、成城学園の音楽教室は、山みたいなところにあったんだけど、成城は田舎みたいなところだからね。そこへ夜行くわけ。

...

だから、いまでもピアノがあるってことは、とても嬉しいわけね。

広中 わかるよ。

 

 p.41 「叩き込む教育が必要だ」

 

 p.54 「ジェラシーを殺す」

 

 p.56 「自分のペースでやる」

広中 競争心っていうのかな。一人の人間の、成長する過程でさ、ある時期は非常にひとりだちでいかなければならない時があるわけ。要するに誰それと、どう比べてどうのこうのいうのでなく、自分のペースでやるっていうことが非常に大切で、それに実際楽しいわけよね。そうしないとさ、表面的に出たものだけで、比較するでしょう。たとえば一つの数学の理論を作っている場合にしてもね、ある種の理論っていうのはある時にポッと伸びて行ってさ、それから行きづまってね。そのころにまたほかの人の理論がそれまでなんかぐずぐずしてたのがパッと伸びてくるとかね。こういろいろ伸び方の違いがあるわけでしょ。だからある理論がパッと出て注目されると、すぐそこにくっついていく人はさ、いつまでたっても他人の後を追っていることになるわけよ。

小澤 小人で芽が出ない。

広中 かえってね、頭が良くて、なんでもとびついていける人はね、小賢しい仕事はどんどんできるわけだけどさ、ほんとうの独自のもの、自分だけのものっていうのが出てこないよね。ほかの人と比較して誰がそうしたから自分もどうのこうのというような態度というものは、ともすれば小賢しい方へ行っちゃうわけだ。結局自分だけのもの、ほかの誰もにもないっていうものをつくれない。ともかく自分のペースで進んで行ってね、そこになんとか自分独自のものを築いて行く方が、結局長い目で見ると得なんだけどね。

小澤 それはぼくもわかっているつもりだし、わかってる人はいっぱいいると思うんだけどさ、その小賢しいっていうのが普通の人間の本来なんじゃないかね。それがぼくは当たり前だと思うんだよ。それに嫉妬心も入ってくるし。

広中 うんうん